「当たり前」を支える物流

ヤマト運輸の総量抑制に関する報道がなされて以来、連日、メディアで「物流」、「宅配」、「人手不足」、「長時間労働、「再配達」、「時間指定」、「サービス」、「限界」等々の言葉が際立った。

これほどまでに、メディアに物流業が連日、話題になったことも珍しい。

テレビのニュースはもとより、ワイドショーにも取り上げられ、お茶の間でも「宅配便」について話題になったはずだ。

東日本大震災における緊急物資輸送でトラックが活躍し、「物流はライフライン」として国民から評価されたが、今回のことで、改めて物流の社会インフラが浮き彫りになった。

「宅配クライシス(危機)」として、連載をした新聞報道もあったが、国民にとっては、「宅配ショック(衝撃)」でもあったはずだ。

ライフラインは、電気、水道、ガスなどの生活に必須な「あって当たり前」のインフラを指すが、これまで「運送」や「宅配」も「当たり前」と思われていただろう。

玄関を開ければ、荷物が届く。時間指定もできる。保冷もできる。翌日や当日も届く。日本の「当たり前の日常」だ。

しかし、今回、春闘交渉に向けた一連の報道を契機に、世間一般は「荷物が自宅に届くのは、当たり前でない」ことを知ることになった。

「実は当たり前の裏に、犠牲となる要素があった」ということだ。

通販市場拡大による物流増加の現状の中で、ヤマト労組では「労働力確保が逼迫する状況の中で、限界を感じながら安全と品質維持に取り組んでいた」という。

ヤマト運輸の労使交渉の合意内容をみると、その中には、「宅急便の時間指定区分の12時―14時を廃止する」とある。その理由は、SD(セールスドライバー)の昼休み時間を確保しやすくするためだ、という。

2019年の創業100年に向け「一番身近で、一番愛される」企業をめざし、社員満足を起点とした良い循環の構築と現場起点の抜本的な経営構造改革を進めている。

ヤマト運輸の中興の祖・小倉昌男氏は、「サービスが先、利益は後」と唱え、ヤマトのDNAとなっている。しかし、サービスに「犠牲」をともなうことは、好ましいことなのか。望んではいないはずだ。

ヤマト運輸労使が春闘交渉で確認した「一定量を抑制することで、現場業務の軽減を図る」ことは、社員の命と健康が守れる職場環境を構築するための決断だったと思いたい。

「犠牲の上に成り立つサービス」はあってはならない。